先週金曜(2015/10/23)付けで、株式会社永和システムマネジメントの社長を拝命しました(公式発表)。すこしこれまでの経緯や、ぼくの思いを書いてみようと思います。 永和システムマネジメントへの入社 ぼくは大学を卒業後、最初に東京で日本鋼管(現JFE)に就職、NK-EXA(現エクサ)に出向しました。3次元CAD開発の仕事で、曲線・曲面を扱う数学やグラフィックスを得意な分野としていましたが、30歳で最初の子供ができたことから、福井(福井県大野市がぼくの自宅です)への転職を決め、永和システムマネジメントに1995年に入社しました。 入社20年たった今年、社長という役割を頂けたことは運命的な意味を感じています。 永和とアジャイル もしかしたら、このブログの読者の方は永和システムマネジメントというと、Rubyやアジャイルを連想する方が多いと思います。実はそれは最近のことで、東京支社を2002年に作って、天野勝や角谷信太郎、木下史彦、伊藤浩一、、、(卒業多数含む)、、といったRubyとアジャイルを愛するエンジニアが東京の永和にたくさん集っていったことに端を発しています。今では「アジャイル事業部」というそのものの名前をもった事業部ができ、事業として大きく成長しました。仲間に出会えたことに感謝しています。 金融と医療、アジャイルと組込み 実際には、永和システムマネジメントには「金融の永和」、「医療の永和」という顔があります。むしろそちらが先に(30年前から)しっかりした事業体を作っていますし、現在でも、永和と言えば基幹系金融システムの開発/情報系の開発、医療システムの開発、福井での地域医療機関サポート、といった分野の信頼が、大きな資産になっています。「永和さんに頼んでよかったね」という言葉を聞くことがぼくたちの仕事なのです。 金融・医療に続く3本目の柱として「オープンシステム」を目指して、UNIXカーネルの開発に端を発するチームができたころ、ぼくが入社しました(1995年)。ぼくの最初の仕事は、永和をインターネットにつなぐこと(esm.co.jp のドメイン名もぼく発案)。その後、『オブジェクト倶楽部』(現オブラブ)活動開始、東京事務所の設立、JUDE(現 astah)の開発開始、などの活動をしていく中で、前述の人たちとの出会いがあり、アジャイルのチームが東京にできる展開になりました。そして、最近では自動車の車載ソフトウェア開発基盤を含む、組込み技術センターも発足し、AUTOSAR技術などを得意に、技術発信しています(1分で分かる社史はこちら)。 面白いのは、これだけ違った分野で仕事をしていても、変わらないことは、チームで仕事をすることそして、「永和さんに頼んでよかったね」という言葉を聞くことが仕事だ、という価値観で、これは小山公一郎社長、西村輝雄社長、と引き継がれてきた永和の文化なんだと思います。社是には、「会社の繁栄と社員全員の幸福の一致」があります。また、働きやすい環境づくり、を社員参加で取組んでいます。 エンジニアが日本で活躍できる環境 ずっとぼくが考えてきた、というより悩んできたのは、エンジニアが誇りをもって社会で活躍できる環境をどうつくるか。自分自身が受託開発の中でとても苦労した経験から、その答えの1つが「アジャイル開発」の実践だと考えています。受託開発や新しい契約形態で日本でのアジャイル開発に取組むこと。そして、もう一つの答えは、自社プロダクトやサービスを持つこと。それが株式会社チェンジビジョンで「astah*」として開発しているモデリングツールです。 チェンジビジョンと永和 2006年、永和の中でずっとフリーソフトウェアとして作ってきた astah (旧名: JUDE)事業化し、チェンジビジョンという会社を創立しました。進化したソフトウェア設計エディタ astah は UML/ERD/DFD/SysML/D-Case などの汎用モデリングツールとして成長しています。永和はチェンジビジョンの親会社です。 今後、チェンジビジョンは代表取締役を共同設立者の熊谷さんにもお願いし、ぼくもそのまま代表取締役社長として残って国内、世界へのモデリングツールの発信を続けて行きます。 両社とも、中途採用を継続的に募集していますので、志をともにできる方の応募もお待ちしています。 正式な社長ご挨拶メッセージは、こちらです。http://www.esm.co.jp/corporate/
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